今から100年以上も昔、新潟から北海道に渡ってきた若き本間松藏(まつぞう)。
冬の寒さが厳しい雪国ですが、その風土に育てられたじゃがいもと出逢います。
雑穀商で修行をした後、志を抱き大正9年に「本間農産商」を創業。松藏のその一歩は、
じゃがいもへの想いと共にこの地で広がり、時代を超え、今、倶知安じゃがの歩みへとつながっています。
創 業
創業から守り続けているもの。それは農産物だけではなく、
人々が大切に育ててきた地域の“ほこり”そのものだった。
大正5年、新潟佐渡島から岩内の親戚を頼って北海道に渡ってきた若き松藏(まつぞう)は、倶知安町の基線通り中央市街にあった雑穀商「マルサ臼田米次郎商店」に就き、商売の素を学びます。
大正9年には独立し、基線西51番地にて「本間農産商」の看板を掲げ、澱粉用いも買い付、小豆、燕麦などの集荷販売を始めました。
当時はじゃがいも貯蔵庫とは名ばかりの建物で、真冬の厳寒期には横板の隙間から雪が吹き込む粗末な倉庫でした。松藏は毎晩、寝床の枕元に水を入れた茶碗を用意しました。そして夜中に人差し指を入れ、茶碗に薄氷が張っていると飛び起き、倉庫で練炭を燃やしたといいます。これは、庫内の空気を対流させ、生産者が大切に育て収穫したじゃがいもをシバレから守るためでした。「いもをお守(も)りする」といって、松藏は言葉を発せない乳呑み児を守りするように、常にじゃがいもに意識を向けておりました。
発 展
倶知安のじゃがいもを、日本一の“台所”へ届けたい。
それは同時に、北海道から東京までの流通への挑戦でもあった。
第二次世界大戦後、倶知安産じゃがいもの本州への移出が本格的に行われるようになり、昭和33年、松藏を代表取締役として「株式会社本間松藏商店」を設立しました。
昭和35年ころにはマツダオート三輪車を購入し、食用じゃがいものほか、政府米の集荷や肥料、農薬、飼料の販売も始めました。
昭和36年、当時専務だった本間年(みのる)は、東京神田市場で見た段ボール詰め野菜箱をヒントにして、「じゃがいも用段ボール(22.5㎏入り)」を取り入れました。それまでは使用済みの米俵をじゃがいもの包装資材として再利用し、俵にじゃがいも50㎏を入れて鉄道貨物で流通していました。
継 承
いつの時代も変わらない食べる人の笑顔のために、
世代を超え、形を変えて。
昭和55年、二代目代表取締役 本間年(みのる)は倶知安町の街並みの変革に伴い、旧胆振線六郷駅付近にじゃがいも貯蔵施設を集約しました。
昭和62年には、それまでは貯蔵庫にバラ積みしていたじゃがいもをコンテナ収納方式に変更しました。このことによって、じゃがいもの越冬管理や品質保持が劇的に改善されました。
平成26年、三代目代表取締役 本間英夫は消費者の嗜好の多様化や流通システムの変化に対応すべく、パッケージセンターを開設しました。パッケージ作業は町内の福祉施設にご協力をいただき、業務委託を通して倶知安町の地域福祉の向上に貢献しております。
未 来
再び産地へ。生産地としての機能は次のステージへ。
食卓の喜びは生産者の喜びとなり、
唯一無二の地域の“identity”へと。
倶知安の産地としての歴史は、日本の食を支えてきた歴史でもあります。しかし今、日本の農業は転機を迎えています。人々が長年かけて培ってきた「経験と勘」を継承するAI技術の活用も始まり、合理化と省力化へ時代は進んでいます。その背景にある少子高齢化、農家の担い手不足など、私たちを取り巻く環境も刻々と変化をしています。技術が進化し、生活環境が変化する時代を迎え、私たちは心の豊かさがより一層求められると考えています。家族の幸せを祈り、畑を耕し、種を蒔き、幾度となく襲いかかってくる試練を共に乗り越え、収穫の喜びを仲間と共に分かち合い発展してきた農業の歴史。情報が簡単に手に入る時代だからこそ創業時から変わらない地域の素晴らしい“identity”を商品と共に皆様の食卓へお届けしたい。私たちの願いはこれからも変わることなく未来へと続きます。